「多様性」に縛られて多様性を失う僕

こんにちは。こいけまさしma(@koo_exe)です。
今回は悩めるアラウンド20歳らしく、多様性についての悩みを思いつくままに書き連ねようと思います
「多様性」というワードは近年とてもバズってますよね。
「働き方改革」「LGBTQ」「夫婦別姓」……。
十人十色という言葉がありますが、まさにその考えが光を浴びています。
隙あらば自分語りを始めますが、僕は昔から「多様性」の考えが好きです。
「僕は君じゃないし、君は僕じゃない」と強く思っています。
原体験は何だろうと考えましたが、家庭環境が一番強いかなと思いました。
僕が生まれ育った家庭は四人家族でした。構成要素は父・母・姉・僕。
はっきり言って、男尊女卑な家庭でした。一番立場が弱いのは姉でした。
姉はいつも不平不満を言っていました。どうして男尊女卑なんてものが罷り通るのだろうか、いつも僕たちは考えていました。
そのおかげか、性別で物事を判断することはあまりしなくなりました。
近年、社会的にも「多様性」が流行しているので、改めて僕も考え直しました。
そしたらひとつの悩みが浮上しました。
それは、「多様性に縛られて多様性を失っている」ことです。
どういうことかと言いますと、「多様性」を認めたいが故に、「多様性」を認めない存在に対して嫌悪を抱く、ということです。
みんな違ってみんないいなら、「多様性」を認めない存在もひとつの在り方でしょう。
僕は認めるけど、君は認めない。それは個人の自由。
それなのに、「多様性」を認めない存在を認められない僕がどこかにいる気がします。
そしてそれは僕だけではないように感じています。
「自分は自分だよね。」と日頃から自分に言い聞かせています。
それが当たり前になったときに、世界がどう見えるか楽しみです。
最後に、「自分は自分」を落とし込むために、『嫌われる勇気』という本をオススメしておきます。
アドラー心理学に関するベストセラーです。
僕もまだまだですが、日々精進していきます。
それでは、また次の記事でお会いしましょう。